今日のご理解(2021年10月18日)
金光教教典p392の53節です。
理Ⅰ・山本定次郎師の伝え・53節
手習いは坂に車を押すごとく油断をすれば後にもどるぞと昔よりいうておるが、信心する人もよく心得て信心せねばならぬ。信心も坂に車を押すごとく、油断をすれば後へもどる。また、玉磨かざれば光なし、光なければ、石かわらのごとしというておるが、また、信心する氏子は本心の玉を磨きて信心せねばならぬ。鉄でも磨けば銀のように見える。金銀も磨かねば光がない。人間、万物の霊長なれば、本心の玉を磨きて、何事にも心がけをよろしきようにせねば、神様へ信心しておると思うても、人が信心なと見て敬うてくれず、わが身信心と思うほかなし。
教会長ご理解
私共は凡人の身ですから、身が鉄ならば時々は錆が出るというもので、教祖は鉄でも磨けば銀のように見えると仰せられ、「人間、万物の霊長なれば、本心の玉を磨きて、何事にも心がけをよろしきようにせねば」なのですが、私共は一事が万事に神様のおかばいを頂くしかないのが正直なところではないでしょうか。
昨日は博多教会の開教125年の記念祭がありました。前々から教会長先生からぜひお参りして下さいとのことでした。それで当日は仲原の月例祭でもありましたし、お供えの買い物や神饌などで、息子夫婦は手が離せません。で、箱崎の総代さんが多分お参りされるだろうから、その車に便乗したらどうですか、と家内が申すので、電話して依頼しました。快諾して下さいましたが、後から聞いた話が、当番としては別の総代さんになっていたのが、そちらは「家内がちょっと具合が悪いので、今日は行けません」ということで、私が頼んだ総代さんが代わりにと言うことで頼まれたそうです。「神ながらのことでした」と仰ってました。
神様が、わざわざ具合を悪くしてまで、そういうご都合をされたと思い、「お手数をおかけ致しました」とお礼を申したことでした。
成り行きの中にいつも、間違いないなあ、というものがあります。もちろん、だからそれでいいのだ、とは思いません。不行き届きのところを詫びたりするのですが、人に見せるための心磨きというよりも、やはり神様が見てござる聞いてござる、ということなのです。
私共が相対しているのは天地の親神さまです。神に向かう心とは、どこまでも天地の親神様に向かう心なのです。すべての上に天地の親神さまのおかばいを頂かなければ立ち行かないのが私共である、という自覚から、願わずにおれない、すがらずにおれない、信心となるのだと思います。
仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは
