金光教の歴史
- 教祖出生
1814年(文化11年)備中浅口郡占見村香取(岡山県浅口市金光町占見)に、農家の次男として出生。
名は香取源七。
- 12歳
隣村である大谷村の農家の養子となる。
川手文治郎に改名。
2年間、大谷村の庄屋から手習いを受ける(農民としては村で唯一)
「実語教・童子教・御成敗式目、童子訓」、教祖の精神の基層となる。
「とかく信心は真の心で、親に孝、人には実意丁寧、家業を大切にし、神仏を粗末にしないように」と。
- 18歳
養母が41歳で初産。義弟、鶴太郎生まれ。
- 23歳
義弟、鶴太郎が病死。6歳。
半年後に、養父が病死。66歳。
家督を継ぎ、向かいの家の幼友達の古川とせと結婚。
(教祖23、とせ18歳)
- 24歳
風呂場と手水場を建築。
- 26歳
妻、とせ初産。長男、亀太郎生まれ。
- 29歳
亀太郎が病死、4歳。
同年に次男、槙右衛門生まれ。
- 30歳
門納屋を建築。
- 32歳
三男、延次郎生まれ。
- 33歳
教祖、36日間かけて四国参り。
- 34歳
長女、ちせ生まれ。
- 35歳
ちせが病死。生後9ヶ月。
未明に発病。医者を2人もつけ。親類などが祈念するも晩には死亡。
- 36歳
四男、茂平生まれ。
- 37歳
母屋建て替えを決める。
庄屋に建築の日柄・方角などを尋ねる。
槙右衛門が発病。医師、服薬。医師は「心配なし」と。同夜に悶え苦しむ。
翌朝、医師が「案外むつかしい」と申して帰り。それから驚いて親類や組内の人々が裸参りまでして神々に祈念するも、病死。9歳。
同日 延次郎6歳が疱瘡(天然痘)となるも平癒。茂平2歳は無事。
疱瘡平癒祈願の神主に、槙右衛門は死んだが、延次郎は無事であったと、手厚く御礼をする。
飼い牛が発病。牛医者が治療。「治った」と申して帰る。その日のうちに病死。
建築につき金神様にお断りを申し上げる。「どの方角にご無礼となるのか凡夫で分かりません。建築が成就しましたら神棚にお祀りします」と。
庄屋から教えられた日柄・方角を守って母屋建築に取りかかるも、雨が降り続いて困りいる。
建築なって神棚を調え、金神様を祀って、御礼を申し上げる。
- 38歳
昨年と同じ月日に飼い牛が発病。牛医者が治療。昨年と同じ日に死亡。
これで七墓を築いたことになる。
次女出生。くら。
- 41歳
男子生まれ。
「42歳の時の2歳子は親を喰う」との言い伝えにより、翌年の卯年生まれということにする。
- 42歳
神主に頼んで男子の歳の「まつりかえ」をしてもらい、「宇之丞」と名付ける。
男の大厄とされる42歳なので、神々様、総氏神様へ参拝して厄晴れ祈念。鞆津祇園宮、吉備津宮、西大寺観音などに参る。
4月25日 教祖、発病。
4月26日 病気増す。医師、服薬、祈念、神仏に願い、病はのどけ(のどの病気)となる。湯水も通らず、ものも言えず。医者は「九死一生」とさじを投げる。
4月29日 農作業の手伝いに来ている親類身内が集まり、神々に祈念。
妻の弟に神がかりがあり、「建築について無礼あり」と神の知らせを告げる。
教祖、「方角を見て済んだとは、私は思いません、以後、無礼ところはおことわり申し上げまする」と実意をもって詫びる。
「その方は行き届いている。心徳をもって神が助けてやる。一代まめで米を食わしてやるぞ。」との神示を弟の口を通して得る。
5月4日 教祖、病気快癒する。
- 43歳
月の1・15・28の3日を一日がかりの神参りとすることを思いつき、神様へ御礼申し上げ、神々様に信仰し、願い。
- 44歳
1857年(安政4年) 10月13日、教祖実弟(三男)・香取繁右衛門が「金神様お乗り移り」と言って神がかりとなる。
教祖は知らせを受けて行き、金神から、弟の屋敷宅替えの費用を頼まれ、これを引き受ける。
神「神の頼み始め」、教祖「信心はじめ」
10月18日 教祖、弟の普請の大工仕事を手伝う。
10月20日 腕が痛み腫れたが、仕事して治り。「まったく金神様おかげを受け。たびたびまいり。」と。
10月21日以降 教祖、弟の所へ度々お酒を差し入れ、普請費用の銀子、また小遣いまでも贈る。
11月9日 普請が成就し、弟、繁右衛門は金神様のお守りをしはじめる。
12月 教祖の妻妊娠中の身体不調。繁右衛門の取次でおかげを受け、翌日から身軽くなる。
- 45歳
1858年(安政5年) 1月1日、教祖、繁右衛門の広前に年始の御礼参拝。
金神様「神の言うとおりしてくれて、そのうえに神と用いてくれて(立ててくれて)、神も喜び。金神が、礼に拍手を許してやるから、神とあったら、他領の氏神と言うな。大社小社なしに、拍手打って一礼いたして通れ。金神下葉の氏子と申して、日本神々へ届けいたしてやる。今まではいろいろと難をうけたが、これからは何事も神を頼め。医者や修験者の祈祷など要らないようにしてやる。妻の産は5日か17日」と。
1月17日 教祖の妻、暮れまで野良仕事をし、帰宅して夜に出産。三女、この。
3月15日 教祖はじめて神からのお知らせを手に感得す。
4月 教祖、にわかに熱・頭痛。神様願い、つるりと寝入り、目を覚まし、すみやかに直り。さしつかえなし。日々おかげ受け。
7月13日 教祖、盂蘭盆会につき祈念。この時、初めて神の教えを口ずから言う。また、先祖精霊の教祖への御礼の言葉も口ずから言う。「口でお知らせに相成り」と。
7月 当時誰もが行っていた稲田に殺虫剤としての油を入れる事を「この方には油入れるな」と神様からお知らせ。教祖、それに従われた結果、村中にない豊作となる。
8月13日 親戚がいる所の氏神祭りの日なので、祭りに参ることを神様に願うと、「今日は行くな、唐臼(脱穀機)立てが来るぞ」とお知らせがあり、7月末に唐臼の歯を新しく立て替えるのを頼んでおいた人が、午前10時頃にやって来て、それでそのことが成就出来た。
9月14日 教祖の実弟、彦助が養子に行くことになり、教祖がその事の面倒を見る。二毛作の出来る田を贈る。宴席も設けた時、神様は「なますなどの肴には酢をよく足して混ぜよ」とお知らせ下さり、この酢が足りないのがコレラとなる、と。この年、世間ではコレラが大流行し、神社ではオオカミの死骸を呪具とする憑きもの落としの祈祷が盛んに行われた。
この頃 神様は農作業に細々と指示。また、神が手伝うと。稲こぎに、籾を米にする脱穀作業に、綿つみに。教祖の妻は「今日はどうしてこんなに早くはかどるのだろうか」と言う。
天気の照り降りも神様が知らされ、雨天と晴天の間を都合良く農作業を進めることができるようになる。神様「天に一家(親族)をこしらえてやるぞ」と。
9月23日 金神様、天照皇大神から教祖をもらい受ける。一乃弟子と。→日本の氏子から天地の氏子へ。
神様、教祖に秋中、行をせよと。世間体をかまわずの心行。
11月3日 養母が病気。むつかしい。神様の仰せ通りにして、全快。
神様の指示で、母屋の神棚を上の間に新しく整え、襖も菊桐の模様の紙に貼り替える。→取次の御用をさせんとの神様の御心か。
12月24日 神様から教祖に神号として「文治大明神」を許さる。
この時 先祖の無礼、17年間に7墓を築かされた理由、実意丁寧神信心により夫婦が助けられたことなどについて、神のお知らせを受ける。
- 46歳
1859年(安政6年) 1月1日、「村役場へ隠居願いをせよ」との神命を受ける。子供3人に疱瘡(天然痘)をさせるぞ、とのお知らせも。
1月18日 庄屋に隠居を願い出る。
3月1日 家督を三男の浅吉(延次郎改め)に譲る。
この頃、神様は、その田その田に植えるものを指定され、さらに麦が刈りやすくなる方法を示される。雨風により麦が将棋倒しとなり刈りやすかった。
5月6日 麦は日に当てずに俵に入れよ、と指示。→真似をした村人の俵は後に虫が大量にわく。教祖の麦俵は何事も無し。
この後、天気の都合を頂いて、田の耕し、田植えをする。
安政6年5月末頃 次女、くら9歳、病気、日々に弱る。神様は、「捨ておいて農業へ出よ」と指示。「死んだら、ままよ、と思うて、心配せずに、農業、家業に精を出せ」と、子供のことは神様任せをさせられる。
5月27日 くら意識不明。神様「心配なし」とお知らせ。教祖「以前は教えてくださる神様もなし。今度は結構にお知らせくださる。これで死んでもおかげ。夜のうちに密かに葬式しよう」と。くら、起き上がり本性となる。夕方4時過ぎのこと。夜もぐっすりと休んだ。
5月28日 くらに疱瘡の水疱がぱらりと出る。神様「大きな子から小さな子へ、順次に疱瘡をさせる。この方には、笹を振っての不浄祓いは要らない、汚(けが)れを言うこともない、食物の毒立ちということもなし」と。当時世間では、病にかかれば「汚れ(けが)れ」たとしてお祓いを受けたり、また医学処方として「毒断ち」という厳しい食事制限が強制されていた。神様はそれらを過ちであると撤廃を指示された。
6月3日 神様「まず1人は仕上げた。安心いたせ。三日ぼうそう(軽い疱瘡)と申すものなり」と。
6月10日 神様から教祖の神号として「金子大明神」を許される。
6月16日 五男、宇之丞が病気。教祖は全快祈念するも、しだいに弱り、ついに大病となる。
6月21日 湯水も通らず。お願い申し上げ。神様「疱瘡なら水疱が出ように、もう5、6日である。この度は病難ぞ。この子は生まれ年をまつりかえておろうが。元の年に戻すか。戻さねば助からぬがどうする。いかがするぞ。」教祖「恐れ入りました。元の年に戻しまする。お助け下され。」神様「それなら元の寅の年6歳、名も寅吉と改めい。おかげをやるぞ」と。水団子を食べるまでに回復。迷信に惑わされて生まれ年を誤魔化したことが天地乃神の心にかなわず。
6月22日 神様「ついでに疱瘡をさせよう。午の年2歳おこのは、疱瘡は軽いぞ。」と。教祖夫婦が野良仕事に出ている間、姉のおくらが看護をした。こうして仕事にも何の差し支えもなく、3人の疱瘡を無事に仕上げることが出来た。
この頃 神様「日照りになっても綿には水をやるな。水をやると内虫が多いぞ」と。
8月 生麦に日を当てずに俵に入れることを真似をした村人の俵に、後に虫が大量にわいたことについて、神様「仕事のまねはだれでもでき、心のまねができんから」とお知らせ。
8月 教祖、綿つみ。妻の弟「ここの綿は皆よい綿である」と。綿買人が、「綿がよい。繊維がよく出る」と。摘みやすく、選り別けもなく、買値もよかった。
9月10日 神様「せがれ(浅吉)に牛を使わせよ。畝が出来ようが出来まいが、ゆがもうとどうなろうと、ままよと思って、浅吉に任せよ」と。
教祖妻「牛が荒れますから、使い始めはあなたがして下さい」。教祖が牛を使い始めると、牛が飛び歩いて、手に合わない。教祖はこれは神様からのお知らせであると思いつき、せがれに使えと申すと、妻とせがれは「大人の手に合わないものがどうして子供の手にあおうか」と。教祖「手に合わなくても使ってみよ。らくじゃ」と。それで浅吉が使ってみると牛は静かになった。教祖「どうかな。恐れ入れい」と。こうして15歳の浅吉に牛使いを渡した。→農家としての家督を任せたということ。
教祖この頃 農作業中に、神様に頼んでくれと人が来ていると家から呼びに来るので、戻って拝んであげて、また農へ出、ということが日常となる。
安政6年(1859)10月21日 麦蒔きが終わって、神様にお礼を申すと、神様「色紙を五枚買ってまいれ。それで御幣を作れ」と。
神様「この幣を境に農業を差し止めるから承知してくれ」と、農業をやめて人助けに専念してくれ、と依頼される。すなわち、「世間になんぼうも難儀な氏子あり。取り次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ちゆき」と。教祖「仰せどおりに家業やめて、お広前相勤め仕り」と。
12月22日 床の間へ神棚を二段に作るようお知らせ。信心を始めておかげを受けた大工(逸見重蔵)が、「お礼にしてあげます」と。
12月28日 神棚整え。同人が賽銭箱も供える。
- 47歳
1860(安政7年) 正月 神様「拍手を許した信者氏子の国、所、名を書き付ける神門帳をこしらえよ」とお知らせ。
2月19日 「京都東山南東寺久城院」と称する者が無心に来る。銀5匁を差し向ける。以降 教祖帳面「山伏はじめ無心者かずかず参り」とある。
5月1日 神門帳として表紙に「願主覚帳」と書いていたものを神様のお知らせによって「願主歳書覚帳」と改める。この年の記載は136名、慶応2年(1866)までで合計475人となっている。
1860年(万延1年12月) 神様「田地を売り渡せ。古川八百蔵に」とお知らせ。なお、舅である八百蔵は、教祖が農業をやめることやその信心ぶりに反対していた。翌年5月には信者となる。
12月19日 上質の田、1反25歩半(石高6斗8升5合6勺)を古川八百蔵に売り渡す。なお、教祖は代金は受け取らなかったと伝えられている。(藤井きよの、古川隼人)後に明治4年(1871)までには田地を売り尽くした。なお安政3年の時には、村全戸(寺や庄屋も含めて)127戸中10番目の田畑持ちとなっておられたが、これで農家としては最下級となった。
- 48歳
文久1年(1861)1月 神様「東長屋を建て替えよ。二間に四間、 土間は四尺、一丈一尺の柱で」と。また「此方のは何月何日ということなし。大工の仕事先が急ぐならそちらに行かせるがよし。いつなりとも、その方の勝手しだい、準備のできしだいに建ってよし」と。
世間では、いわゆる四二間(死に間)四尺(死尺)と柱の長さと共に最も不吉の数字として忌むべきこととされたが、日柄のことなども含めて、全くそれらを意に介さないお知らせであった。
5月3日 古川八百蔵、病気がもとで教祖の取次を受け、おかげを受けて信者となる。(願主歳書覚帳)
6月4日 大工が来て東長屋建て替え準備。
7月21日 東長屋の基礎工事。暑いと皆が言った。神様「明日は天気を繰り合わせてやる。暑きことなし」とお知らせ。
7月22日 一日曇り日和。東長屋の棟上げを行う。建つと同時に雨が降り出す。大工「よう降らざったのう、これが途中に降ると、どうならんのじゃった。よい間に建ったのう」と申し。早々お天気となった。かつて日柄を守っての母屋建築で雨が降り続いて困った時と対照的。
棟上げ式について神様「他では棟まつりをするが、この方には神の指図でするぞ。棟ばさみも、まつる米もいらん。棟でまつっても地を治めないと、ひっくり返ってもしようがないぞ。地をまつって治めよ。末の繁盛を楽しますため」と。
- 49歳
文久2年(1862)1月3日 教祖の実弟、小幡彦助が神経が荒立っていると、小幡家の人や隣人が教祖のもとに来る。
神様「心配なし、治めてやる」とお知らせ。8日 神様「此方から無事でやったから、此方で治してもどす。」「せがれに、行ってひきたてて、その方先へなりてもどれ」とお知らせ。
せがれ浅吉が行き、病人彦助を連れて来る。14日 彦助が発作。神様「今日の昼・夕方までには治めてやる。夕方、風呂に入らせよ。明日、神の前に出て御礼を申すようにさせる」とお知らせ。
彦助、本性になり、風呂に入る。神様にお辞儀をして休む。
17日 彦助帰宅。
2月18日 小幡家身内の者が彦助を連れてきて、「またぶり返しました。妊娠中の妻も産気づいているので心配しております」と。
神様「心配すな。神が産はさせん。帰ってみよ。おさまっておろうぞ。病人は治して帰らす。本人が元の本心になって、妻が大事なと言うようになったら産をさせる」と。
3月3日 彦助「姉さん帰ります」と言ってひとりで帰った。
3月24日 小坂東村の蓮行院修験者ら、庄屋の小野四右衛門に教祖の布教禁止を申し込む。「金神を信心しているから、差し止めるように」と。
3月25日 同修験者3人、教祖広前の神具類(金幣、鏡、提灯、金灯籠、幕、幟など)や供え物を持ち去る。
3月26日 彦助の妻、安産やすし。彦助御礼に参って来る。神様「一月延べてやった」とお知らせ。
5月19日 東小坂の蓮行院と本覚院が、預かった幕などを焼き払いたいと庄屋に申し込む。
庄屋「神具を焼き払うということは容易ではないことであるから、お上に届けてからにする。そちらも届けられよ」と。→庄屋はそのまま保管したり、内緒で教祖のところに戻すなどしていたという。6月16日 浅吉18歳 疲れたように寝ている。神様「疲れではない。はしかぞ」とお知らせ。
6月25日 無事にはしかも治り、元の本身に戻った。神様「あとの四人の子供、今月の内にさしてしまおう」と。
7月1日 みな無事に全快した。5人の子に守いらず、はしかの時の果物や青魚・青野菜は食べてはならないという毒断てをすることもなかった。この方よりはしかの手本を出した。
7月21日 矢掛智教院おじ斎次右衛門、教祖の所に来て、強請(ゆすり)。
同日午後7時頃 教祖、神様の指示により笠岡出社へ行き、斎藤重右衛門らと懇談。使いを矢掛智教院へ派遣。
7月22日午后 使いが戻り、智教院は謝罪をしたと報告。
7月23日 教祖帰宅。
帰宅早々 向かいの家の鈴木久蔵、待ちかねて参り、妻妊娠はしかで医師も手を放して九死一生と。教祖、お神酒を下げてやり、「早ういただかせ」と帰らせ。早々おかげを受けて全快。
同時期 教祖妻の弟である遠藤国太郎の妻、妊娠はしかで、医師も手を放しと、人が母(古川)を呼びに来。神様、母に「心配せずに行け。一心に願え、うろたえな。明日の夕には安心できるようにしてやる」とお知らせ。早々、おかげで全快。
教祖宅周囲60軒ほどの中で妊娠はしかの女6人がこのようにして助かった。世間では大勢が死んだ。
教祖の実弟、彦助も大病との知らせ。薬一服飲まずに全快した。はしかの時もおかげを受けた。
