1. 今日のご理解

アイコン今日のご理解

今日のご理解(2021年10月13日)

イメージ画像

金光教教典p340の2節です。
理Ⅰ・徳永健次の伝え・2
神様へ一心にご信心なされませ。おかげはあります。遠慮はないから近うお寄んなさい。お話をせねばなりません。
周防のお方、私のことを人が、神、神と言いますが、おかしいではありませんか。私が、なんの、神であろうぞ。私は、何も知らぬ、土を掘る百姓であります。東京辺りから官員方がたくさんにみえまして、「人が神になると言うが、違いはない。人が神になるのじゃ」と言われます。あのかもいに張ってある名刺をご覧なさい。たくさん張ってあります。これへおいでなされるお方が神様であります(参る人を指して、神と言われたり)。あなた方が神様のお子でありましょうが。生神ということは、ここに神が生まれるということであります。私がおかげの受けはじめであります。あなた方もそのとおりにおかげが受けられます。

教会長ご理解

 徳永健次さんはもと長州藩士、眼病を患い、医薬では効がなかったので、明治十五年に、金光大神の広前に参拝、四日間滞在して御理解を受けたそうです。後に眼病は全快。
 この時は教祖が農業を止めて取次に専念されるようになってから二十数年経っているのですが、まだ御自覚としては「私は、何も知らぬ、土を掘る百姓であります」なのでしょう。けれども周囲の人々は生神様と呼び、神様も「生神金光大神」という御神号を与えておられるのであり、それでいて、「これへおいでなされるお方が神様であります。あなた方が神様のお子でありましょうが」と。それはまるで、神様の子であるから、信心して神になるのは当たり前と言わんばかりの、御理解なのです。
 前に申しましたが、江戸時代の国学者本居宣長は著書で、神とは「何であれ、尋常ならずすぐれたる徳(働き)のありて、かしこきものを神とは言うなり」と言っています。つまりは、これが教祖の時代の日本人の神についての考え方でした。ですから、誰もがその気になれば神になれるのです。そして「生神ということは、ここに神が生まれるということであります」と。
 それを「神」と言えば何か「全知全能の至高の存在」のように日本人に思い込ませたのが、明治になってから解禁されたキリスト教の布教力によるものでした。
 もつとも、今日でも日本人の神観念は続いており、優れたスポーツ選手などを「だれだれは、神だ!」と言ったり、技能を讃えて「神業」などと言っています。キリスト教やイスラム圏では決して言わない表現です。
 もともと日本人にとって「神」はとても身近な存在だったのです。ですから、信心するのは当たり前のことであり、同時に、神や仏の祟りを恐れたりしていたのです。
 たいへんな災難にあった人がよく言う「神も仏もあるものか」は、ずっと時代の下がった明治以降に出来た言い方だと考えられます。「何かの祟りではないのか」というのが、それ以前の日本人の基本的な考え方でしたから。
 お取次によって人が助かったというそれは、その人にとっては助けた人は生神様と言えましょう。身近な生神様と言えば、やはり大坪総一郎師でしたねえ。

仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

アイコン更新・日程