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今日のご理解(2021年10月1日)

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津川治雄師の伝え・10節
信心するのに巧者がある。なぜかと言うと、朝から長く拝むばかりでおかげがいただけるとはいかない。千度祓とか万度祓とかは、いらないことである。たった一ぺんの心経でもよい。お祓をあげていても、入り口の障子があくと、だれが来たのであろうかと思うようなことでは、何にもならない。忙しい時には、ゆっくりと拝んでいることはできない。さあ降りだしたという時に、ゆっくり拝んでいては、干してある稲や麦がぬれてしまう。忙しい時には、今日は、こうこうでございますからと申して仕事に出て、麦を刈りながらでも肥をかけながらでも、清浄な心で拝めば、それで神様はお受け取りくださる。
ここへたびたび参って来なくてもよい。参って来ても、金をこれだけ使った、これだけあればあのことができたのにと思うようでは、神様にご心配をかけるようなものである。神様は親であるから、氏子が心配するのはかわいそうだと思われる。無理にたくさんの金を使って参らなくても、うちで信心しても守ってくださる。

教会長ご理解

 信心には何か儀式的なものがつきものだと思うのですが、ここでは教祖さまはそれらをさっぱりとしたものにしてあります。どうしてそれが出来られるのでしょうか。それは、教祖さまにとって神様は家族であり、それも親であり、ごくごく身近な存在として頂いてあるからだと思います。
 いわば、親の気持ちがよく分かるから、どういうことであればよいかがお分かりになるのでしょう。
 私は思うのです。教祖が語られる神さま、教祖が説かれる信心の仕方、それらをよくよく勉強させて頂いて、おかげを頂いていきたいものだと。そのおかげというものは、それこそ「日天四は父神様で金神様は母神様である。お母様が、よい方へよい方へと連れて歩いてくださる。(理Ⅱ・松山勝蔵の伝え・2)」であり、具体的には、「(明治十六年七月)ご膳は食べん日あっても、一日もお広前さしつかえなし。二十七年このかたのこと」との述懐であり、明治十六年十月十日という、かねてから御神命のままに仕えておられた金光大神祭り日のその日、「ああ心安し」のお言葉と共に、神上がりされたことでありましょう。つまりは生涯を無病息災で過ごされたのです。

そういうおかげの見本手本を現されたのが、金光大神様でした。ですから、金光教信奉者は「それも一つことじゃから、信心して金光大神のまねをする人は、みな、おかげを受けた受けたと言うて来てじゃ。・・・・信心しなされ。だれも一つことじゃ。(理Ⅰ・斎藤宗次郎の伝え・8)」ということにならねばならないでしょう。
 けれどもそれを邪魔しているものがありそうです。つまりは過去の宗教観念と言いましょうか、本当と思い込んでいた、たとえばいろんな作法とか修行の取り組み方とか考え方とか、そんなものがあるようです。中には、ことさら人間を何かおどろおどろしいような存在として見る見方もありますし、頭ごなしに罪人と見る考えもあります。
 「親と思えば子と思う。神を親と思って信心をしていれば、神の方から子と思う。(理Ⅱ・市村光五郎の伝え・3)」
 「一生死なぬ父母に取りついたと思うて、何事でも無理と思わず、天地の神にすがればよい。(理Ⅰ・近藤藤守の伝え・11)」
 これが天地の親神様のお心であり、またの御理解に、
 「(神様が)『天地金乃神と氏子の間柄のことを、金光大神、参って来る氏子に話して聞かせよ』とお伝えくだされたので、このように話をしておるのである。(理Ⅰ・山本定次郎の伝え・48)」とあるように、天地の親神様と氏子の間柄というものは、教祖が話された通りの頂き方をしていけば、よいのだと思います。
 お道の信心を難しいものにせぬことです。

仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは

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