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今日のご理解(2021年9月23日)

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山本定次郎師の伝え・43節

病苦災難にて、たびたび神様へお願い申しあげる家は、遅れ百姓のようなもので、人の手伝いを受け、ようやく一番耕作をしたと思う時、お手伝いをしてくれた人らは、その翌日より二番耕作を始められるので、安心に日を過ごされます。遅れ百姓は、たびたび人様のごやっかいにならねばなりません。病苦災難のたびたびある家には、人なみより別に大神様へお願いし、格別にお守りをこうむらねば立ち行かんのであります。
私方には三代盲が続きますとか、代々目を病みますとか、代々血の道にかかりて困りますとか言い、金神様が障りて困りますとか、種々様々お願いされますが、此方の話を聞いて疑いのない人ほど早くおかげを受けられます。
はじめ疑いがありても、道理を知りて参るうちには、信心の徳で代々続く病人がないようになってしまい、人が助かるような家もだんだんある。
信心の油断をしておかげを取りはずすのは、飲み食いで安心しており、次の支度をせず、さっそくに困るようなものである。飲み食いの時間になりて支度すれば、心が急ぐばかりで勝手が悪い。病気災難のないうち信心しており、大難は小難に、小難は無難にしてもらうよう、何事にも心がけて信心するのがよろしい。

教会長ご理解

金光教では「めぐり」ということを申します。難儀の元はやはりあるのです。教祖さまも七墓築かれたのは、家のめぐりというものでした。けれどもそのおかげで、この神様と出会われたと言っていいでしょう。難儀のおかげで信心の迫力が違われましたから。
 私は随分前ですが、悲惨な死に方をなさった方の家のお祓いを頼まれたことがありました。お祓いを済ませた後、神様に、いったいどういうわけでこういうことになったのでしょうか、とお尋ねしたことがあります。すると一言「めぐり」と頂きました。正直私は、またそれですか、もう聞き飽きました、と返答しました。何でもかんでも難儀なことは「めぐり」によるものと仰る。それでは、いったいめぐりというものは何なのでしょうか、と尋ね返しました。
 すると、御心眼に、目の前に「肥溜め」を頂きました。そして、さあ中を見るかという感じで蓋を開こうとするところでした。私は、そんなものは見ないで結構です、と申しました。
 それで考えました。若い人は肥溜めなど知らないでしょうが、昔は必ず田畑の脇にはこれが設けてありました。つまりは肥料溜まりなのです。昔は人間の大小便が肥料だったのです。お百姓さんが家々に肥汲みに来られて、それを肥溜めに溜めるのです。そしてすぐには使いません。しばらく置いておくと、発酵して尿素などがアンモニアに変わるのです。その他の腐敗物ともども良い肥料になるのです。

それをいったい何が入っているのかと、調べたところで、それこそ何があるか分からないようなものです。けれども確かなことは、それは人間が生理的に出したものだということです。人間、生きるということは、やはり汚いものも出るのです。どんな聖人君子でも、それは免れられないのです。
 そしてしばらくして、作物を育てる肥料として使われるのですが、肥やしを掛けられるときは作物にとっては難儀なことでしょう。臭いし、汚いし、とてつもないものです。けれども、それでお野菜ならお野菜が立派に生長するのです。育つのです。
 人間で言うなら、難儀のおかげで成長するのです。信心が進むのです。その苦労が人を育てるのです。昔から、艱難汝を玉にす、と言われているとおりなのです。
 ただし私は今日はそのことを中心に言いたいのではなく、言いたいのは御理解の中の「大難は小難に、小難は無難にしてもらうよう、何事にも心がけて信心するのがよろしい」ということなのです。
 難儀が大きすぎて心が折れる人があります。それ以上に、もう心がつぶれてしまうという人が、やっぱりあるのです。難儀を修行と受け止める、とは言葉では簡単に言えますが、本当に千々に砕けるという人もいるわけです。
 だからこそ、日頃から天地の親神様におすがりをして、大難は小難に、小難は無難にしてもらうよう、信心させて頂くことが、人間が人間らしく幸せになる道でもあるのです。
 先祖からのめぐりについては、教祖さまは「親の借金を子が払うようなものである」と仰せられています。とりわけ天地の借金は、相続放棄も出来ないことを知っておくべきでしょう。

仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは

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