今日のご理解(2021年9月22日)
津川治雄師の伝え・6節
願い事があると、遠方からわざわざ参って来て願いを頼む人が多い。人を頼むにはおよばない。真の信心をして、自分で願っておかげをいただけ。人を頼まなければ、おかげがいただけないとすれば、お取次をする者のそばにつききっていなければなるまい。神様はそういうものではない。自分で願って、自分でおかげをいただけ。
教会長ご理解
たびたび頂く御理解です。津川治雄さんは教祖さまがお取次をされるようになって翌年か翌々年に初参拝された方ですから、当初からこのような御理解をされていたのだと思います。「自分で願って、自分でおかげをいただけ」と。そういう信心になりなさいと、いうことでしょう。
金光教は金光大神取次の道であると言われています。それはそうなのでしょうが、それだけとするなら、このような御理解はされないわけです。ようく考えてみましょう。人間は皆が神の氏子なのです。いうならば大勢の兄弟姉妹の中で、一番親の心を分かり、親から一番信頼されているのが、教祖さまと言えましょう。そこに、親を親とも知らない思わない弟や妹が来て、おかげを受けたいと教祖に頼むのです。教祖としても、何も分からない氏子のことですから、よしよしと引き受けて、親神様におかげを願われるのです。そうして、おかげを受けたら、理解申して聞かせで、天地の道理などを色々とお話しされるのです。ところが、たいていの氏子が、おかげを受けたらもうそれですんだという感じで、お話は一向に耳に入らないのです。親神様が「天地金乃神と氏子の間柄のことを、金光大神、参って来る氏子に話して聞かせよ」と教祖にお伝えされても、ろくろく話を聞かないのが、結果としての今日の金光教となっているのではないでしょうか。
金光大神さまに、あるいはお手代わりの先生に、頼みすがり、そしておかげを受けるだけの繰り返しではなかったでしょうか。
高等教育を受けた偉い先生が申されます。「お取次を頂いておきてくることは、よいことわるいことみなよい。お取次を頂かずしておきてくることは、よいことわるいことみなわるい」と。けれども本当は、天地の親神様にお願いして、お願いせずに、ということではないでしょうか。取次中心と言うことは、いつまでも金光大神にぶら下がっているようなものでしょう。お兄さんとしては、そんな弟や妹に、直接自分でお父さんお母さんに相談しなさい、願いなさい、と言いたいところでしょう。
ところが、親を親とも思っていませんから、それがぴんと来ないのです。
合楽初代の御教話には、「天地の親神様、親神様」という言葉が八千ヶ所ほど出てまいります。今にして思うのですが、どれだけそれをそうだと思って聞いていたでしょうか。
仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは
