第96節
世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。
人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。
信心しているから、いつも光を持ちつづけて居れるということはない。例えば螢の光のように点滅しておるようなもので、ついたり消えたりである。信うすき者、信なき者はその消えておる時、兎や角言うものである。消えておる時も次の光の前提であることを知らない。悪口でも言われる時ハ、神のヒレイと思うて辛抱してゆくうちにおかげが受けられる。
「神が顔を洗うてやる」と仰せられる。顔を洗うてもらう時、神の光は輝きつづける。神のことをあれこれ言うていた者も神威に恐れ入る時である。(昭47・7・16)
信心を極めるために、どうでも通らねバならぬ難関。山に登れバのぼるほど視野が広うなって来るように、信心も高められれば高められるほど、心が広うなってくる。「借金取りの声もウグイスの声」に聞こえてくるようになると、もうしめたもの。いよいよおかげ間近しの時である。(昭和52年)
我が顔を立てようとするから腹が立つ。神の顔を立てておればヒレイが立つ。(昭58・7・25)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
