第90節
上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。
道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。
今朝よりの夢に、或る人が油を買いに行っている。容物が桶である。箍がゆるんでいたので底がぬけた。庭一面、油で汚しているのである。自分も困りお店の方も大迷惑である。
信心の稽古をさせてもらうにも、受け物(姿勢)がしっかりしておかねば教会の比礼に傷をつけることになり、自分もおかげハうけられぬ。『假令一時はむつかしい事があっても辛抱していく間には徳が受けられる』と御教え下さるのですから。(昭47・7・10)
凡夫のことですから、ああもしたい、こうもなしたいと心を千々にくだきます。それでも道ハ開けません。それハ我情だから我欲だからです。次第に自身の無力さに気付きます。はじめて神さまの十分の働き場が出来るのです。『辛抱して行く間には』とは、その間に我情をとり我欲をはなす修行が出来ます。神徳の中にある自分がわかります。 真実、神徳の中にあることがわかることは神徳を受けたも同然です。(昭和52年)
過去の宗教に於いて、生身の人間が、神や仏を目指すというのは、やはり『下から上へ水を流す』ような不自然なことですから、凡人では不可能なことであったのでしょう。
しかし、ここに「円生法」という大法則に従った生き方になりますと、『上から下に水を流す』ような自然なへ道が開かれてくるのです。即ち、人間は獣になるより神になることの方が自然な生き方なのです。要は天地の円うしようというリズム(流れ)に乗ることです。天地のリズムに乗るコツは我無力にあり。(昭58・7・19) *「円生法」
天地の働きの中には円うしよう円うしようという働き以外にない。だからこちらも円く生きようと心を定める時、神様の働きを十分に受けることになる。
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
