第32節
女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。
また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。
女だけでなく、野菜に限らず、食する時のことだけでなく、其の時そのことの取り組む姿勢を教えられたものである。どのようなことでも事柄自体を拝む心、そこまでに至る過程を詫びる。願う心があればおかげである。
又、そのことを処してゆくとき、成行きそのままが御神意として、『神様頂きます』というような心あらば、あたることもなく、さわることもなしである。むしろ其の事が信心の血に肉になるのである。(昭45・7・14)
〇商売をする人が、お客様を拝む。其のお客を差し向けて下さる神さまに礼を 言う。
〇お百姓の方たちが野菜の種を播く。きれいに芽が出たと其の芽が出たことを 称える。又、其の元つ働きの天地の恵みに感謝する。
〇神様あっての私としての感恩の生活が出来るようになる。そこには氏子あっ ての神としての神の感謝が伝わってくる。神と氏子との拝み合い、即ち「あ いよかけよ」の道が開かれる。兎に角、お道の信心は拝み拝まれることに尽 きるのです。(昭51・7・15)
実験実証させて頂く信心の「いろは」です。大地を拝む気になり、すべてに頂きますという合掌の心。今まで気づかなかったおかげの元が、そこにもここにもある事に気づかされます。信心とは一切を拝み、一切を頂きますと言うことだな、とわかります。(昭56・7・23)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
