第6節
目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。
畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。
これは教祖さまの神観でありましょう。たしかに神愛の中にある私共であるはずなのに、これは私の場合ですが、こわい所を通っている様に、又は薄氷の上を歩いている様な、ヒヤヒヤする様な思いで過ごして居る今日此頃であります。こわいと思う心が我が心の中にあるからです。
いよいよ改まり、いよいよ磨き、何処におっても神の広前として、又、神の中を分けて通り居る様な実感をもって過ごせれるおかげを頂きたいと、日々精進させて頂いております。(昭44・7・23)
『神の中を分けて通り居るやうなものぢゃ』と、お道の信心もここまで実感として頂けたら、日々が生き生きとして有難い信心生活が出来る。それだけでなく、お徳を受けることでありましょう。信心の確立とは、このような実感が得られる時をいうのであります。(昭50・7・18)
何をなしておりましても感謝の心が頂ける信心・・・・・・。すべての中に事柄の中身を味わい、御事柄と頂く時、一切が生き生きと輝き、神の恵みと御礼の心が湧いてくる。信心しておれバあれは飲まれぬ、これは食してはならぬということはない。神の恵みと押し頂くとき、神さまもよろこんで下さり、私共も有難い。神恵みの中にあることを悟ることである。底深く 静かにしずかに 湧き出づる 愛の真清水 くみてのまばや(昭55・7・28)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
