一、不浄のある時は先に断りおいて願いあることを頼めよ。
不浄と感じたら素直に詫びることです。『わびれば許してやりたいのが親心』と教えて下さいますから。だんだん信心を進めて参りますと、本来不浄はありません。教祖様は『不浄とは不成のことぞ』と教えておられます。神さまがおきらいになる不浄とは、氏子の願いが不成就に終わることです。一心の信心をさせてもらい御祈念成就のおかげをうけたいものです。(昭44・6・29)
穢い心が不浄です。即ち我情我欲です。いよいよ「真、善、美」の中に住みたい。「偽りのない」「悪のない」美の世界、即ち神徳の中にある歓喜に満ちた生活。そこには争いのない病気のない、勿論、物金等に不自由のない世界が限りなく開けてくるのです。神徳の世界とは不浄のない別天地。(昭49・7・25)
一、拝む心のまちへに百人百様、その内容こそ我が身の信心と悟り、かぎり なく内容を高め深めてゆきたい。
一、臭いと香りは違います。臭いはくさいのです。おわびが要ります。
臭いから香り、そして無臭を目指し、そこから徳の香りが出るようなお陰 を受けたい。
ご無礼もお粗末も平気な横着時代から、お粗末ご無礼がわかり身のほどを知り、そこからかぎりない信心の世界がひろがってくる。(昭55・7・4)
合楽教会早創の頃、お供えものに大変きびしかった。あるとき蕨とりに行ったと、蕨のお供えがあった。それにそえてパンのお供えも一緒にあった。お供えをさせて頂いたら「パンをかえせ」と神さまから頂いた。おどろいた信者は「実は私共に御無礼が御座居ました。出がけに主人が蕨だけでよいと申しました。このことが御機感に叶わぬものと思います。どうぞ御無礼を御詫びして下さい」と。あらためてお供えをさせて頂いたことがある。(昭61・7・2)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
