一、用心は前からたおれぬうちの杖ぞ。
御理解七十一節に『おかげは我家で受けよ』とある。又『壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけ』ともあるように、日頃の信心を求められたものである。やぶれた袋を持ってお米を買いに行くようなことのないように常に心がけて、つくろい修繕をしておかねばならぬ。いかに神さまがおかげを下さっても、心がやぶれておれば洩れてしまうの道理である。(昭44・7・12)
あの人を杖とも柱とも頼んでいたのに、と嘆く人があります。人では頼りにならない、物も金も学識も本当の役にはたたぬと悟っての神を杖につけば、人も物も学識も総て一切が生きて来る。神が人間行動の原動力となるから心強い生活が出来るのです。(昭50・7・7)
何十年信心いたしましても杖にも柱にもなって居ない人があります。ここで信心の力を受けねバと言うとき、信心のある者も無い者も変わらぬ様では、『倒れぬ内の杖ぞ』が泣きます。只今の御祈念前に日田の綾部さんのお届けに「この頃ハ毎日が事柄の中に、人間関係の中に、すべての中から神さまを身近に実感致します」と。又、これも昨日のことです。福岡の伊藤さんのお届けに、先日或る方が「主人がおかしな事件の為、給料を持って帰らない」と嘆かれるのを聞き「お金を差し上げると思うて貸してあげたい」とお届けがありました。
私は申しました。
「貴女の親切では双方がおかげになりません、其の心で神様に向かいなさい」と。今日のお届けに「其の方から、主人が十万円持って帰りました、とお礼の電話でした。たしかな神さまに恐れ入ります」と。このような神様を頂き乍らの信心でなけれバ、いざと言う時の杖にはなりません。(昭55・7・17)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
