今日のご理解(2023年8月28日)
理Ⅱ・佐藤光治郎(みつじろう)の伝え・13
狐狸(きつねたぬき)などと、金光様に悪い評判がたったころ、
「狐狸などと言って、これより偉いものはないように思っているが、人間は天地の神様の分け御霊である。
体がぬくいのは日天四様のおかげ、体に骨筋があるのは金乃神様のおかげである。また口の内に水が回ってろれつが回るのは、月乃神様のおかげである。それでいて、天地の神様のみ心にかなった氏子がない。
天地の神様のみ心にかなった氏子は、身代と人間と無病とがそろい、それが三代続いて家柄人筋となっていく。これが天地の神様のみ心にかなうということである。それを氏子が知らずにいるのがかわいそうであると神様が仰せられる。
財産が百石米できれば、それだけの力がなければならない。しかし、天地の神様のみ心にかなわない者は、財産はあるが知恵がないのでしかたがないということが起こる。また、この人は財産もあり力もあるが、まめ息災ならよいのに病身であるので、村のことや、あれこれと出て来て働いてもらうことができないということになる。それで、人間の賢い、無病の者ができたと思えば、財産をなくする。財産をなくさないとしても、大切な者が死んで、財産は残しておいて子孫が絶えてしまう。また、人間は賢く、相当の家筋であるが、物がないために人に無理をさせるから、それそれの筋(役)へ当てられないということになる。こうしたことが天地の神のご機感(み心)にかなわないことである。天地の神のおかげを知らないから、互い違いになってくる。
信心して神の恩を知って、無事堅固で暮らしていっておれば、子孫もでき財産もできて、安心になってくる。先を楽しめ。はじめは一年まさり一年まさりといい、十年一昔といっているが、後には代まさり代まさりのおかげを受けることができる。
果物は花の時分には、なるものかならないものかわからないが、実がなってだんだん大きくなれば、御所柿でもできる。あのように、末へいくほど大きくなってこなければならない。神様は天地中に満ちわたって、山の谷でも川の底でも同じことであるから、信心するがよい」と言われた。
教会長のご理解
教祖さまが42歳の時に大病にかかられ、医者もさじを投げて九死一生となられた時に、どのようにしておかげを受けられたかを考えてみる必要がありましょう。まだ教祖が神様と出会わないときの事です。その時、奥様の兄に神がかりがあって、「母屋の建築と転居について、金神に無礼をしておる」とお知らせがあったのです。すると舅の古川八百蔵さんが、「当家において金神様おさわりはない。方角を見て建てた」と言い返します。
すると神様は、「そんなら、方角見て建てたら、この家が滅亡になっても、亭主は死んでも大事ないか」と詰問されます。
そのやり取りを聞かれた教祖さまは、寝たままお断りをされたのです。すなわち、「ただいま氏子の申したは、なんにも知らずに申し。私、方角を見てもらい、何月何日と申して建てましたから、狭い家を大きい家にしましたから、どの方角へご無礼しておりますやら、凡夫で相わかりません。方角を見てそれですんだとは私は思いません。以後無礼のところ、お断り申しあげます」とお詫びされたのでした。
すると神様は、打って変わった様子で、
「戌の年(教祖のこと)は良い。よし。ここへ這い這いも出て来い」と仰せられて、おかげをやることを約束されたのでした。そしてその通りに全快したのでした。
皆は病気なら病気でも治るように願うばかりですが、案外、お断りしたり、お詫びしたりするべきなのかもしれません。まして、またの御理解に、
「天地と神様との恩義をしだいに知らぬようになりたゆえ、難儀しだいに多くなる。(理Ⅲ・教祖御理解・22)」とある中での難儀なら、よけいそうでしょう。ですから、またの伝えに「朝晩、親神様を拝む時には、必ずご無礼お粗末を一番にお断りしてから、お礼を申し、それがすんだら、身の上にかかってくることは何なりと、実意をもってお頼み申せば、おかげをくださるぞ。(理Ⅲ・尋求教語録・126)」とあるのでしょう。
仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは
