今日のご理解(2021年10月16日)
金光教教典p458の大倉たか師の伝え1節です。
理Ⅱ・大倉たか師の伝え・1節
自分でお頼み申せば聞いてくださるから、信心するがよい。
教会長ご理解
このように、信心して自分で直接に神様にお頼みせよ、という傾向の教えが多いですよね、教祖の御理解は。
それを今は、何でもお取次を頂かねばならないと。まるで、お取次を経由しなければ神様は聞いて下さらないとでもいうような、そういう雰囲気に本教はなってはいないでしょうか。
やっぱり教会に参って御結界にお初穂をお供えをして先生のお取次を頂かねばならないというような。
まあ、教会の経済の立ちゆきもありますからね。そういう手続きを抜きにして直接神様に向かっても、はたして神様は聞いて下さるやら、聞いて下さらないやら分からない、という感じで教導するのではないでしょうか。こんなこと言うと身も蓋もないことでしょうが。
なんでこんなことになったのかというと、要するに、形ある姿ばかり見ているからです。つまりは人ですね、徳者、高徳な先生、親先生と。まあ、それは神様のように黙っておられる方と違って、眼に見えますし、話すことも出来ますし、教えも頂けたりしますし、それで無理もないことですよね。
ですからもちろん、お取次はいらないということではなく、金光教の主神はどこまでも天地金乃神様であることを知らしめるのが取次者の大きな御用ではないでしょうか。すなわち、「氏子あっての神、神あっての氏子、子供のことは親が頼み、親のことは子が頼み、天地のごとし。(覚書・13.1)」と、親のことは子が頼みとあるように、少しは親のことを思う子になるように、親神様のことを思うような氏子になるように教え導くことも重要ではないでしょうか。
「親先生のおかげでない命が助かった」と信者に言わしめるのも尊いですが、天地の親神様のおかげで今日の全てがあります、と分からせることも大切でしょう。でなければ、親としての甲斐がありません。ただもうおかげを氏子に与え、氏子を教え導き、お育てされ、養われるだけ、という一方的な間柄であって、何も心はかよわないというなら、こんな寂しいことはないでしょう。
天地の親神様のことをきちんと理解していく。それが信心の基本の基ではないでしょうか。昨日も申しましたが、合楽の初代の御教話には「天地の親神様」という言葉が八千か所近く出てまいりますから。
仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは
