今日のご理解(2021年10月4日)
理Ⅲ・尋求教語録(片岡次郎四郎師の伝え)・105
「昔から、あの人は神様のような人じゃ、仏様のような人じゃ、人に悪いことをせぬ正直者じゃと言われる者でも、だんだん不幸なことが重なったりして、どういうものじゃろうということがあるのも、みな、神に無礼粗末があるからぞ。なんぼう人に悪いことをせぬ正直者でも、信心せねば神には無礼粗末ができるぞ。人のよいのと神への無礼とは、また別ものぞ」
と金光様が言うてござる。信心せねば、なんぼう善人でもおかげにはならぬ。
教会長ご理解
旧教典の御理解二十七節の元になった教祖のお言葉です。旧教典では、
「・・・なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞ」
となっていますが、元々のお言葉は、
「人に悪いことをせぬ正直者でも、信心せねば神には無礼粗末ができるぞ。人のよいのと神への無礼とは、また別ものぞ」です。旧教典の方では、信心しておかげを受けるように、というような教えにしてありますが、元々のお言葉の方はもっとリアルに説いてあります。すなわち、「だんだん不幸なことが重なって」というそれは、何故なのかを説いてあるのです。「信心せねば神には無礼粗末ができるぞ。人のよいのと神への無礼とは、また別ものぞ」と。
教祖というお方はリアリストです。現実主義者です。ご自分がかつて苦しみに苦しんだ不幸のどん底を通って来られたお方なのです。いわば天地の親神様の有り難さと同時に、その怖さも十分に知ってあるお方なのです。それも「信心せねば神には無礼粗末ができるぞ」と。だからこそ次のような御理解も伝えとしてあるのです。
「多くの人の中には、私は天地の親神様と言うて拝まんが、それでもさしつかえはないと言う人もある。これは恩を受けて恩知らずという者である」「親に不孝の人を世の中の人がいかに言うか。もし万一、不孝の子供が災難にかかりた時には、いずれは親の罰(ばち)ではないかと人が言うようなもので、自分の難儀のない時に天地の親神のことを知りて信心するのが人間ではないか。(理Ⅰ・山本定次郎の伝え・61)」と。
天地の御恩徳の広大さ、受ける恩恵の巨大さ。それを思えば、人間なら当然の行いがありましょう。それを無視するなら、「あの人は神様のような人じゃ、仏様のような人じゃ、人に悪いことをせぬ正直者じゃと言われる者」であっても、天地から御覧になれば「人非人」も同然のことになりましょう。
「天地の神様は、氏子を、内の子であると言っておられる。(理Ⅱ・佐藤光治郎の伝え・2)」とあります。よその子も同然のような人間だらけなのですけれどもね。
仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは
