第83節
一年に分限者になるような心になるな。
先は長いぞ。一文二文とためたのは、見てる(尽きる)ことはないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ。
総てのことについて言えることだが、とりわけ財産のことは財そのものに天地の裏付けのないもの程危ないものはない。国家の保証のない金は形ハ同じでも贋金である。天地の保証のないものは贋金を持つも同然である。いつかは贋金使いとして失くする苦しみを受けねばならぬ。
「使うてへらぬ金百両」天地の徳をうけての分限者を願わねばならぬ。『人より一年後れて』何と滋味のあるお言葉ではないか。(昭47・7・3)
金光様の信心をさせて頂く者ハ必ず末広の道、広がりに広がる道に居るのだからという信念を、持ち続けられる信心を頂かねバなりません。『我慢我欲』も『濡れ手で粟』の心も起きようがありません。決して迷うてハなりません。昔からどろぼうで金満家になったためしはありません。(昭和52年)
人より。財がある。人より美味しいものが食べられる。人よりいいものを着ている。人より地位が高い。これが今日の社会においての幸福の基準になっているように思う。いうならば、幸福は高い所にあるように錯覚している。『人より一年後れて』という心は、くぼんだ心。即ち、くぼ地に水の寄るごとく、自然に自然に幸福の一切の条件が向こうから足ろうてくる。しかも、みてる(尽きる)ことのない広がりに広がる末広の道が。
唐 日本 天竺
くぼい所へ寄り、同行(同様)水の寄るごとし。(昭58・7・12)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
