第68節
神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。
その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
三代金光さまのおことばに『神信心には何事も辛抱することが一番大切でございます』とあります。信心辛抱させて頂く内に、三代さまの又のおことばの中にありますように『ほしいものも、考える事も、いつのまにか無くなりましてなあ。有り難うて有り難うてならぬようになり、なんぼう御礼を申しても、足りませんのじゃ。御礼の足りませぬお詫びばかりしております』というお徳に進まれておられます。『はじめの間は泣く泣く辛抱しいしい』とも仰せられて居ります。
とかく信心辛抱こそ、すべての徳の根本になるものであります。人生の上におきてくる雨風の上にもまた同じことであります。(昭46・7・19)
辛抱というても信心辛抱でなからねバならぬ。その内容が心の内を改めるであり、清めるでなけれバ『身に徳を受ける修行じゃ』にならぬ。生活そのものが改まり清まるおかげを受けねバ『神に虚言を云ふも同然ぢゃ』ということになる。形だけの信心でハおかげだけ心からの信心に徳がうけられる(昭52・7・20)
六…禄・徳に通じる
八…広がりに広がるの意
とかく先ずは徳を受けよという事である。おかげは広がりに広がって来る。雨も風も総て御徳を受ける素である。雨風も神愛と悟れた時、心から「神願有難し」と受けることが出来る。総てを有難しと受ける心、即ち真である。(昭57・7・28)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
