第42節
これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。
これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。
一、そこからの信心が力になるのであり
二、そこからのおかげが本当のおかげである。
三、足りぬことばかりの私に気付くとき、真の信心の姿勢ができる。
四、このような時、教祖さまならどのように受けてゆかれるだろうか、と思いをそこにおく時、自ずと新たな道が開けてくる。(昭45・7・24)
この頃から毎朝、どなたか私の部屋に大輪の花をつけた朝顔を持って来て下さっています。目がさめるようです。最近、信心のマンネリ化が言われています。信心は、日日に新な、毎日朝露をふくんで咲く朝顔の花にみるようなフレッシュな信心の喜びを感じられる精進工夫が要ります。おかげだけに終始しますと「どうして」という心が起こります。信心が目当てでありますと「こうして」信心を育てて下さるという生き生きとした心が湧いてまいります。(昭51・7・25)
『これ程信心するのに』というけれども、どれ程神様の仰せどおりにしているであろうか。神様の仰せどおりにするのが「行」。それを頂き抜くところに金光教の行の原点がある。
『行』としての布教 神様の仰せどおりに行をされる金光大神。それが外に表出した時、他との摩擦現象を起こし、時には反発を受け嘲笑をあびせられることもある。「他人が嘲笑う。外見がわるい」と奥様は反発された。その事に対して、「私は、人のまわい(世間体)をかまわず、神の仰せどおり、なにかによらず、そむかず」と、そのご姿勢をくずされなかった。そういう『行』を通して、いよいよご自身の神に向かう心、ゆるぎなき信心をふかく確認し、自覚せられる金光大神である。(昭和五十七年七月一日金光教徒新聞論説より抜粋)(昭57・7・2)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
