第40節
重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。
家業を勤め勤めするがよい。
楽じゃというても、苦労せんでよいというのではない。苦労そのままが修行じゃと悟ることで、家業全体が修行、それが有難い勿体ないと感じられてくるから、信心は楽ということになるのです。
今朝より、大橋町の久保山さんがお礼お届をされるのに「毎日、畠の草とりをさせて頂きながら、取っても取っても生える雑草と取り組んで、自分の心の中にもこのような雑草の様なものがあることに気付き、暑さも感じず終日御用させて頂きました」と。 信心はこれだと思いました。(昭45・7・22)
毎朝、しばらくは御礼、御願いの電話がひっきりなしに続きます。電話ではご無礼とか失礼ということはない証拠に、みんなおかげを受けて居ります。私も楽なら信者も楽です。しかし、信心を頂こうとすれバそんな訳にはまいりません。御教えをうけることが楽しみ、修行が有難いとわかり、信心が好きになれば信心は楽なものです。(昭51・7・23)
徳川家康という人ハ、此の世を重い荷物を背負って山坂を登る様なものと人生をみています。世の殆どの人は、正にその通りだと思っています。どんな重いものでも、楽しく有難く持って渡れる力を与えられる道を、金光大神ハ教えています。しかも人間が人間らしく生きる手立てを、家業をつとめへ身につけてゆけるのです。その気になれバ誰でもが頂けるのです。(昭56・7・31)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
