第27節
なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。
昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。
信心しておかげをうけるというのは、それは片仮名でも金釘流でも神さま宛に手紙を書くようなもので、必ず御返事を受けることが出来ます。それは人が善いとか悪いとか、字が上手とか下手とかいうことは別であります。昔からいう「誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」等ということは、人間の勝手な言草でしかないと分かります。頼まんことには神も仏も知らんということです。(昭45・7・9)
宗教学者でも精神家といわれる道徳者であっても、おかげハ受けられぬ。「別物」と言われるおかげとは「楽」の下に「有難し」というおかげ。即ち、心身共に極楽に住めること。貧争病のないおかげを受け、真善美の世界に住める信心者だけの味わいにひたることが出来る。茗荷栄える蕗繁昌(妙賀栄える富貴繁昌)(昭51・7・10)
親鸞小人ハ「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言うことを残しておられるそうですが、親神の心をいたいほどとらえたおことばだと思います。善人悪人を問わず、神さま助けて下さいと言う心をおこしたらお陰が受けられるのは、氏子助けたしの神願の現われであります。(昭56・7・18)
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
