一、真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ。
すべてのことを有難く頂く為に肉眼をもってせず、心の眼をもってすれば、一切神愛とわかりおかげと悟れるのである。真の信心生活、真の御礼の生活が出来るようになる為にも心眼を開かねばならぬ。総てのもの、すべての事の形のことを見ず、其の実相を見る事が心眼を開くことである。女の妊娠の時、困った事とハ言うまいが、よいものが生みなされて来る為の苦しみだからである。よいおかげの産みなされてくる為の修行の時、不平不足では折角のおかげが流産になる。(昭43・7・25)
肉眼の世界は、人間の考えを中心にした世界。心眼の世界は、神さまを中心にした世界である。不平不満の満ちた肉眼の世界より、喜びの満ちあふれた心眼の世界に住むこそ、御神願の世界である。心眼を開くため信心の稽古をしていると言うても過言ではない。(昭49・7・1)
「真の道」いかにも真っすぐい道のように思うけれど、決して一直線ということではない。又、常識的でもない。むしろ曲がりくねった道である。真の道をまっすぐなものと思うところに至難の道とはなる。心の眼を開けばハッキリとわかる、わかる迄が信心である。山頭火の句に、「まっすぐな道で淋しい」と。真の道は茨の道ではない、楽しく心はずむ道である。要心せよ、身欲は迷い道となり理屈はまわり道となる。(昭54・7・11)
心眼を開いたからというて、痛い痒いがなくなるわけではない。只、修行の価値観が変わってくるのである。(昭60・7・9)*只、痛い痒いが修行というだけでなく、その修行が人が助かるための修行と実感が頂ける信心。「おまえが苦しめば苦しむほど人が助かる」という修行。
金光教祖の御教え183か条について、合楽教会初代教会長大坪総一郎 師が、その要諦・真髄を説かれたものを集録和賀心教典とは
