金光教の歴史(詳細版)
まず、金光教の教祖さまのことから述べねばなりません。
教祖さまが自ら執筆した書として、ご自分の出生のことから書き始めた回顧録に相当する「覚書」と、神様からのお告げの内容が記された「お知らせこと覚え帳」などがあります。
それによりますと、教祖は文化11年(1814)に、備中浅口郡占見村(現、岡山県浅口市金光町占見)に、農家の次男として生まれてあります。
12歳の時には隣村(現金光町大谷)の農家の養子となりました。そこでは庄屋から手習いを2年間受けてあります。当時、大谷村の農民で学問を受ける者は他にいませんでした。当時の日本の基礎教育が徳育教育であったことを考慮しますと、このことが教祖の人としての基層となっていることがうかがわれます。すなわち、「とかく信心は真の心で、親に孝、人には実意丁寧、家業を大切にし、神仏を粗末にしないように」という教祖のお言葉がそれを端的に表わしています。
23歳の時に、弟が6歳で病死したのをはじめとして不幸が連続するようになります。半年後には養父が病死、同年に結婚して長男が生まれるも4歳で病死。長女が生まれるも、生後9ヶ月で病死。次男も9歳で病死。同じ年には家族も同然の飼牛が病死。翌年の同じ月日にまた飼い牛が病死。
これでいわゆる七墓を築いたことになります。当時世間では、金神七殺と言って、大地を巡る祟り神の「金神」が居る方角になにかをすれば、七墓を築くということが言われていたのです。当時の暦には、毎年の「金神」の方角などが記載されています。
教祖もこの間、母屋を建て替えるなど、何度か建築もしてありますが、そのつど、庄屋に相談して建ててあります。庄屋は、当時の天文・暦術・和算の学者としても有名の人であり、方位・方角のことを教える大家でもありました。
42歳、教祖自身が「のどけ(扁桃膿炎)」と言う病気になります。水すら喉をこさず、ものも言えなくなります。医者もついにさじを投げて、「九死一生」と宣言します。親類の者も皆来て小麦打ちなどを手伝っていましたが、「とても助かるまい。それでも、仕事だけは、なんでも早うかたづけて、神様におすがりするよりほかにしかたがない」と言うのでした。
教祖の妻の弟が、四国の霊山石鎚山の先達という資格を持っていましたので、この人を先頭に、皆で神々に祈念することとなりました。
ふすま一枚へだてた隣では教祖が病床に伏していました。
しばらくして弟に神がかりがありました。
「建築につき、金神に無礼あり」と。
妻のお父さんが言い返します。
「無礼はない。方角を見て建てた」と。
すると神は、「方角を見て建てさえすれば、この家が滅亡になっても亭主が死んでも大事ないか」と詰問します。
この時、教祖の喉が緩んでものが言えるようになります。
「ただ今、申したのは何も知らずに申しております。狭い家を大きくしましたので、どの方角にご無礼をしておりますかは凡夫であい分かりません。方角を見てそれですんだとは私は思いません。以後、無礼のところはおわびいたします」と。
すると神は、「その方はよい。ここへ這ってでも出てこい。その方は行き届いている。氏神はじめ神々はみなここに来ておるぞ。神が助けてやる。信心せねば厄負けの年。一代まめで米を食わしてやるぞ」と語りかけるのでした。
それから7日ほどで床から起き、ついには平癒し、「おいおい全快仕り、ありがたし仕合わせに存じ奉り候」と「覚書」に記してあります。
それから、月の内の3日を朝から一日がかりで神参りにあてて、御礼を申し上げるなどの信仰が始まりました。
次に翌々年すなわち安政四年3月13日のことでした。
実の弟に突然の神がかりがあり、「金神様お乗り移り」と申して乱心したようになり、「大谷村の兄を呼んできてくれ」と言うので、弟の家の者らが呼びに来たのです。
教祖はすぐに弟の所に向かいました。弟は、「よう来てくれた。金神が頼むことあって呼びにやった。金神のいうことを聞いてくれるか」と言うのでした。教祖は、「私の力にかなうことなら承知つかまつります」と返答するのでした。
頼み事の内容は、弟が屋敷を建て替えるのに、お金がないから都合してくれとのことなのでした。教祖が、「してあげましょう」と申すと、弟は「神もくつろいだ」と言って、神棚に飛びついて倒れ、そのまま寝入ってしまうのでした。
翌朝、弟が目を覚まし、教祖が、昨日のことを覚えているか、と尋ねると、「なんにも知らない」と申すのでした。
それで、教祖はいきさつを話し、妻なりと、周囲に迷惑をかけたところにお断りを申して回らせ、村役場にも挨拶をして、それから普請に取りかかったらよい、と話すのでした。
教祖は費用のみならず、小遣いや酒をたびたび差し入れたり、大工仕事を手伝ったりするのでした。この時の事を、後に神様は「神の頼み始め」という言葉で何度も示されるのでした。また、教祖も、自分の信心初めはこの時からである、と文書に記されるのでした。
それからというものは、弟は金神様のお守りをすることになり、教祖は度々そこに参拝するようになったのです。
世間では、金神七殺、金神の祟り、などと言われていたのですが、教祖に向けられた神様の情愛は格別のものであり、教祖一家に対しては、およそ祟り神とは似ても似つかぬ福神としての御働きをされるようになったのです。
「まったく金神様のおかげを受け。たびたび参り」と教祖は書き記してあります。
神様も「神の言うとおりにしてくれて、神を神と用いてくれて、神も喜び。金神が、日本中の神々に届けいたしてやるから、大社、小社なしに、柏手を打って一礼して通れ。今まではいろいろと難をうけたが、これからは何事も神を頼め。医者や修験者の祈祷など要らないようにしてやる。」と申されるのでした。教祖の妻が妊娠してありましたが、神様はその生み日まで指摘され、後にその通りにお産されるのでした。
この年、すなわち安政5年(1858)の7月13日、教祖は神様から直接お言葉を頂かれるようになります。
それからは神様は矢継ぎ早と言えるほど、次々に農業の仕方の改善、生活習慣の改善などを指導されるようになります。
先ず、当時誰もが行っていた殺虫剤としての油を稲田に入れるな、という指示です。教祖は素直に従われ、結果、村中にないほどの豊作となります。神様はお天気の照り降りのことまで教えられ、米作りに、麦作りに、綿作りに、細々と指示をされ、それが皆、都合良い結果となるのでした。
次第に村人も注目するようになり、後に村の古老は次のように証言しています。
「雨も降らぬのに田ごしらえをされる。すると丁度よい時に雨が降る。他の人はこの天気に降るものかと用意をしていないから遅れる。こういう事が沢山あった。先のことがわかるからかなわん。そこで真似をした人があったが、だめである。例えば麦を干して居られ、教祖のところにまだ干しているから大丈夫と安心していると、あけの日雨が降る。ぬれてしまって困る。教祖のところへ行ってみると、夜の内にちゃんと片づけてある。つき切りでないから、夜なべまでは真似ができぬのである。」と。
次に、病気に関わる医療の改善です。
当時、疱瘡(天然痘)と麻疹は、誰もが一度はかかる病気でしたが、一度かかってしまえば免疫が出来てもう二度とはかからないものです。それでも死亡率が高く、無事に済んで平癒することは人々にとって切実なことでした。
疱瘡は、疱瘡を司る神があるとされ、それを祭って無事に仕上がることをひたすら祈るというもので、医学的には、「毒断ち」と言って食べてはならないとする食品を医師が書き連ねたものを渡して、それを守らせるというものでした。それは今日の医学から言えば全く根拠のない、かえって栄養不良状態に追い込むような処方だったのです。また、疱瘡にかかると身が汚れているとされ、不浄のお祓いを受けねばならないとされました。
教祖のお子さん達が疱瘡とはしかにかかったことがありました。その時神さまは、「不浄・汚れ、毒断ちなし」と指示され、それで毒断ちをせずに何でも好きな物を食べさせ、お祓いなどもしませんでした。それぞれが軽い症状で済み、神さまは「三日ぼうそうと申すものなり」と仰せられ、またはしかについても教祖は「此方よりはしかの手本を出し。」と覚書に綴られるのでした。
こういった事から、とりわけ妊娠麻疹という重症化した状態の人が教祖のもとに願い出て、無事平癒したり、農業の上にも教祖の言うとおりにすると都合良くなったりするので、しだいに遠近の人たちが参拝してはいろいろとお願い事をするようになってきます。
そのころ教祖は、田畑で農作業をしていて、人が参ってくると、作業を止めて家に戻り、手を洗い、足を洗い、着物を着替えて神棚の前に座り、参り人の願いを神さまに取り次ぎ、それがすむとまた田畑に戻って農作業をし、そこにまたも人が参ってきているから呼びに来る、という有様で、ついには農業する間もなく、来た人も待ち、両方の差し支えになるまでになってきました。
安政6年(1859)10月、神さまは教祖に、農業をやめて、人助けに専念してくれ、と依頼されます。すなわち、「世間になんぼうも難儀な氏子あり。取り次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ちゆき」と。
教祖は「仰せどおりに家業やめて、お広前相勤め仕り。」と書き綴られています。
金光教ではこの時のことを「立教」としています。今年(平成31年(2019))で丁度160年となります。
神さまとしては、まだまだ教祖の口を通して教えをしたいことがいろいろとあり、この後も次々と改革を図られていきます。
文久元年(1861)正月に、神さまは東長屋を建て替えることを指示されます。四間に二間という間取りで、柱は一丈一尺の柱とするようにというものです。当時世間ではこれを「死に間(四二間)」と言って最も忌むべき間取りであり、柱の長さも占いとしては「病」を示す寸法のものでした。このような建築を始められた教祖のことを、古老の言い伝えによれば、 「あの家は、気の毒なことじゃなあ、 『しにけん』の家を建てて。子孫が続かず、跡が死に絶えてしまうような不幸な目にあうのに。 『しにけん』 の家を建てたうえに、また四尺の土間まで付けている。もう言うことはないほど悪い。気の毒なことじゃ、と言ってあわれんでいたことがある」とのことです。
そういったことを教祖は一向に気にされず、また神さまも「此方のは何月何日ということなし。大工の仕事先が急ぐならそちらに行くがよし。いつなりとも、その方の勝手しだい、準備のできしだいに建ててよし。」とまったくの自由勝手の建築を保証されるのでした。当時世間の常識としては、とりわけ建築などには、暦に書いてある方角を見、日柄を見て、忌み日や災いの神のいる方角などを避けようとするのが普通でした。それらを全く無視したものを神さまは指示されたのです。
後に教祖は信徒に次のように理解(説諭のこと)をされています。
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。」と。「使い勝手のよいのが」とありますように、まことにそこに住む人が使い勝手の良いのがよいのであって、間取りの数字に惑わされたり、何の根拠もない吉凶の日にちを気にしたり、方角を忌んだりすることは、愚かしいことであると諭されたのです。
次に大きな生活習慣改善として、妊娠出産についての事があります。
当時、妊産婦は胎児があまり大きくならないようにと、きつく腹帯を締める風習がありました。神さまは「腹帯をするな」と言われ、また妊産婦にもきびしい食事制限があり、それはほとんど栄養不良状態に導くものでしたが、神さまは、毒断ちをせずに好きな物を食べて体を丈夫にせよ、と仰せられ、また当時の出産は俵や丸めた布団に寄りかかって座った姿勢でするお産でしたが、神さまは、「寝て産め」と指示され、また出産後も座ったままの姿勢を7日間続けねば婦人病になると言われていましたが、それも神さまは、平日のように寝て休んでよいと指示されました。その他、出産後は身が汚(けが)れといるとして、産後一月ほどは神社に参ることを禁じられていたのを、またも、不浄・汚れはない、とすぐに神さまの前に出て良いことを諭されました。さらには、産後に初めて出る初乳は「毒がある」と言って捨てていた風習を、神さまは、「捨てずに飲ませよ、病がないぞ」と教えられるのでした。今日では、初乳は特に栄養価が高く乳児のための免疫成分が多く含まれていることが分かっています。
このような妊産婦の毒断ちや座ってするお産をやめて、今日のようなものに明治政府が奨励するようになったのは、明治22年(1889)の時であり、ドイツミュンヘン大学医学部からの導入でした。
天地金乃神さまは、その27年前から教祖を通して正しいお産の仕方を人間に諭してあったのです。
コレラが流行した年がありました。そのコレラへの対処としても神さまは、なますなどの肴には酢をよく足して混ぜよ、とその殺菌法を教えられたりもしました。当時世間では、コレラを悪霊かなにかの憑きもののように見なし、オオカミの死骸を呪術道具として用いるなどの祈祷が盛んに行われていたのです。
他には、子供から大人まで風邪をひいたら風呂に入ってよく温まってやすめ、とも神さまは仰せられるのでした。体温が上がった方が免疫細胞が活発になるとは、ごく最近の医学で知られるようになったばかりです。
その他、人間の生活の広範囲にわたって、さながらオール人生相談のごとく、小さな子供をあやす慈母のように、こまごまと諭され、また好都合の成り行きとなるお働きを見せ続けられるのでした。
明治六年、神さまは、「一心に願え、今月今日で頼め」「おかげは和賀心にあり」と教えられ、自分の心の持ちよう有り様次第で、そして和らぎ賀ぶ心でおかげとなることを諭され、さらには同年、「何事もみな天地乃神の差し向け。びっくりということもあるぞ」と、つまりは起きてくる成り行きがみな神の差し向けであり、神の働きであることを宣言されたりもしました。
慶応3年(1867)神さまから人間への宣言とも言えるお知らせにこうあります。
「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛みや病気があっては家業出来がたし。身の上安全を願い・・・身の上のことなんなりとも、実意をもって願え」と。
どのようなことでも神を頼め神にすがれと、さながら子が親に頼みすがっていくような、そういう人間と親神の間柄となることを。つまりはこの天地自然によって生かされて生きる人間が、天地と共に生きていく、天地ともに繁栄していく、その大道を示されたということになります。
また、「氏子らは、生きている時だけ天地金乃神様のお世話になるように思っているが、死んでもお世話にならねばならぬ。」「生きても死にても天と地とはわが住処と思えよ」と明瞭なる死生観も教えられるのでした。
明治16年(1883)10月10日、教祖は70歳で亡くなられます。その日は、何年も前から先祖祭りの日として、またご自分の神格である「生神金光大神」の祭り日として定められていた日であり、生前からこの日に亡くなることを周囲に語ってあった日でした。
また神さまも、教祖に「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれい(威徳を現すこと)のため。」とお知らせ下さるのでした。
明治18年、神道事務局傘下のもと、「神道金光教会」としての認可を得ました
また、明治33年(1900)には、自由に布教を行なう独立の教団として、国家から認められるに至りました。ここに至るまでには困難な経緯がありました。明治政府の方針としては、祀る神の神名は、古事記・日本書紀にある神の名前しか認めなかったのです。日乃神・月乃神はともかく、大地の神である金乃神の名はそれに該当しないのです。けれども、教えが立派であるということから、ついに認可されることになったのでした。
現在、教祖のお後を継いで教主として取り次ぎの業に専念されてある方は、教祖直系のご子孫であり、六代目に当たる方であります。
