今日のご理解(2023年4月24日)
理Ⅰ・荻原豊松の伝え・6
また、
「少々のことに、ここへ願いに参らずとも、わがうちのご神前にて一心に願え。願い事のかなうと、かなわぬとは、手が上に上がるを、かなうといただき、下がるを、かなわぬといただきなば、相わかるなり。たとえ違うとも疑うべからず。神様にすがり任せて疑わぬが信心なり」
と教えられたり。
教会長の御理解
ある方の電話でのお届けがありました。教祖の時代と違って、今は通信が発達していますから、便利なものです。けれどもその分、真剣味が欠けるような気もします。それよりは、「わがうちのご神前にて一心に願え」とありますように、直接に神様に向き合う方が大切なように思います。真剣勝負にも似た向かい方が出来るのではないでしょうか。
ある方は言いました。「一切が神愛なのですから願うことが要りましょうか。ただ受ければよいのですから」と。
時々申すのですが、それは「一切神愛論の小児病」と。小児病とは「幼稚で極端な性向」と辞書にあります。幼稚で極端な解釈だと言わずにおれないのです。
まさに、神愛を神愛と受けた結果が、人間が人間らしく幸福になるなら良いですが、かえって人間の幸せと正反対のことになるなら、意味がありません。
「それは天地全ての心ではない。人間が幸福になってゆくということのための天の心、地の心でございます。」との合楽の初代のお言葉に解があるのです。また、「これ以上高める必要はない。それこそ空気が薄くなる。これ以上深める必要はない。それこそ何を掘り出すか分からない。こんこんと、汲めども尽きぬ真清水が頂けている時点で、それ以上に高めることも深めることも必要ない」との教えもまたそうなのです。
慶応三年十一月二十四日、天地の親神さまは「人間は神の氏子」と宣言されました。そして、「身の上に、痛みや、病気があっては、家業が出来がたい。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと、なんなりとも実意をもって願え」と仰せられ、どこまでも人間生活の立ち行きを求められたのです。これが神様の本願なのです。
一切神愛論を運命論と勘違いされている方があるようです。第一、天地書附には、願え頼めとしか書いてありません。
仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは
