今日のご理解(2023年4月21日)
理Ⅱ・市村光五郎の伝え・3
此方が天地金乃神を巳の年(市村光五郎)の父母と授けてやろう。親と思えば子と思う。神を親と思って信心をしていれば、神の方から子と思う。たとえて言えば、子供が育ててもらっている間に、親がなければ、つい向こうからたたかれることがあるかも知れないが、親がついていればたたかれることはない。
悪事災難は棒を持って来るのではないから、しのごうと思ってもしのげないけれども、天地の神を父母と思ってご信仰していれば、目に見えない所は金神が守ってくださるのである。神様は天地のお守(も)りであるから、そのそばは去れない。神様のお守(まも)りを大切にしなければならない。
教会長の御理解
教祖さまは、天地金乃神さまと私共人間氏子の間柄を、親子として説き続けられたわけですが、信心している人間の方では、あまり親子という自覚にはどうも欠けているように思います。それよりも、偉い先生、徳のある先生、何でも願いをかなえて下さる先生に、帰依する方が分かりやすくて信心しやすいというところがあるようです。先生存命中はそれでもよいでしょうが、先生が亡くなると、信心そのものまで無くしてしまって、後の信心も続かない、という傾向があるようです。
信心があろうが、無かろうが、私共と天地の間柄は永遠に続いていくのですから、考え違いも甚だしいことと言えましょう。
総じて伝統宗教やその権威を借りて布教している宗教では、神罰や仏罰をふりかざして、信徒家族をつなぎとめようとしています。けれども、本教にはそんなものはありません。近藤藤守師が伝える話(理Ⅱ・近藤藤守の伝え・13)に、信心を止めますからと言って、お社を持ってきた人があったが、十年後に、かえって借金が出来たからと言って、またお社を取りに来た人があった。それからは、おかげを頂いて、借金払いも無事にできた、という話が残っています。その時に教祖は、あちらからこちらを向かれて、
「人は十年は長いように思うけれども、神様にとっては、あちらを向いてこちらを向く時間ほどもないからなあ」
と仰せられた、とあります。
人間の感覚と神様の感覚が相違するのは当然でしょうが、何とものんびりとした話ではないでしょうか。あたかも独り立ちした子供が旅をして、社会勉強してくるようなものでしょう。親神さまは暖かな目で見ておられることを思います。
「氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。(理Ⅲ・金光教祖御理解・23)」
とありますが、本気で仲ようなろうと思ってある方がどれほどありましょうかね。
仲原教会での御教え 金光教教典からの一節を取り上げ、解説をつける今日の指針今日のご理解とは
